沿革

1992年はタイ・ベトナム語学科、とりわけベトナム語専攻にとっては画期となる年であった。1つは非常勤外国人教師の枠を冨田の必死の運動によって更に1つ増やしたことである。それまでLê Viết Chung, Nguyễn Ngọc Huyền Nhung, Trần Công Quý, Phan Đức Lợiと4代にわたってリレーされて来たベトナム人教師(3コマ)の枠にBùi Thị Loan(3コマ)が加わり、より実践重視の語学教育が可能となった。この年の9月には外国人講師(客員)も専攻語開設以来Lê Văn Phúc, Nguyễn Lực, Lê Văn Quán, Phạm Văn Lộcと北部出身者で占められていたのに対し初代の南部出身者として奮闘してきたNguyễn Mạnh Hùngから再び北部ハノイ師範大学の、しかしこれも6代目にして初の女性講師Nguyễn Thị Bích Hàに代わり、北部出身の2人の女性と中部出身の1人の男性ネイティブという、強力な布陣が整った。

もう1つは、それまでタイ・ベトナム語学科とは名ばかりで、タイ語とベトナム語専攻の間でほとんど何の交流もなかったその壁を壊すために、冨田と、1986年10月着任のタイ語教員宮本マラシーとが組んで、通年の所謂「ペア授業」を(両専攻の後期講義。後に東南アジア・オセアニア専攻共通に)始めたことである。外大史上例がない形態の授業であったため事務的に大いに論議を呼んだが、日本人と外国人のペアと言うこともあり漸く認められた。この授業は冨田の定年退職の年(2013年)まで、実に20年余にわたって続いた。

15年に及ぶベトナム戦争が終結し、ベトナム社会主義共和国が成立した1976年以降、ベトナムでは社会主義化政策の性急さに特に南部の国民の合意が得られず多くの難民が輩出し、また隣国カンボジアへの侵攻(1978年)、それに連動する中国との国境戦争(1979年)、更には日本を含めた西側諸国による経済制裁と続き、ほぼ鎖国状態で世界の最貧国の一つに数えられるほど貧窮し、日本との文化的・経済的交流も極めて限られたものにならざるを得なかった。わがベトナム語専攻もその最中の1977年4月に設立されたものであり、留学はおろか旅行すら困難であり、学生達に学ぶ動機すら持たせられない困難な時代がずっと続いていた。そして1986年12月、遂にベトナムは世界の潮流に副い、社会主義的統制経済体制を捨て、自由主義的市場経済へと舵を切る所謂「刷新(ドイモイ)」された国家へと脱皮していく。とは言え、長い鎖国時代の弊を冶すのは容易ではなく、本格的発展は、カンボジアから撤兵し(1991年)、アメリカの経済制裁が解ける(1994年)、90年代を待たなければならなかった。そして徐々に世界の耳目がベトナムへ向けられ始め、ベトナム戦後初の「ベトナム・ブーム」が到来し、学生達がベトナム語を専攻する動機も、ベトナム語専攻の存在理由さえも15年余を経て漸く輝き始めたのである。

逸早くその空気を察した冨田は、1979年夏の箕面移転以来、その地理的環境から完全に途絶していた大学教職員および現役学生と卒業生および社会人の絆を何とか修復し、その世界的ブームを一過性のものに終わらせず持続させ、更に発展させるためにも、彼我を繋ぐ強力な「磁場」を造ることを決意し、不便極まりない箕面の山中ではなく、あらゆる階層の人が気軽に寄り集まり易い市中に拠点を構えることを模索し、1993年1月「ベトナミスト・クラブ」なる親睦団体を旧外大近くの小橋町に発足させた。早くも6月には社会人を対象とするベトナム語講座を開設し、7月には朝日カルチャーセンターにもベトナム語講座が開設され、定員を越える数の受講生で賑わった。

折しも大学自体も「刷新」の時代に入り、同年4月より、国際文化・地域文化の2学科体制になり、ベトナム語専攻は東南アジア・オセアニア地域文化専攻に組み込まれることになった。この年、日本人講師陣の三本柱(言語・文学担当は冨田、政治・経済は五島[初代は白石昌也]、歴史・社会は桃木[初代は高橋保])のうち、歴史・社会担当の柱が桃木からより若い八尾へと代わり、新課程で学ぶ学生を迎える態勢が整った。視点を専攻語の中から広く東南アジア・オセアニアの世界へと広げていくことが学生にも強く求められることになった。

そもそもベトナム語専攻に限っては、この視点は専攻語開設のときから既にあり、別に目新しいことではなかった。外大の特徴は勿論外国語教育にあるが、それだけではなく学んだ言語を用いてその地方特有のあらゆる事象を認識し、分析し、発展させていくことを常に視野に入れて教育・研究がなされることにある。そのために、人事として言語・文学を基幹の柱として立てつつも、あとの二本の柱を歴史・社会、政治・経済として堅持し、しかも、専門が片寄る外大はえぬきの教員ではなく、少なくとも一本は他の大学で専門教育を受けた教員に担ってもらうことを一貫して主張してきた。それ故、ベトナム語専攻に限っては「刷新」の必要性は殆ど感じてはいなかったが、東南アジア・オセアニア地域専攻内に共通の「刺激的な」科目が数多く設けられ学生達の視野が大いに開けたことは間違いない。

迎えた1995年は日本全体にとって試練の年となった。1月17日に発生した阪神・淡路大震災とそれに連動するかのごとくして起こったオーム真理教団による数々の終末的残虐事件。漸く盛り上がりを見せ始めていた「ベトナム・ブーム」も一時しぼみかけたが、その年の7月、関空・ホーチミン市直行便が就航し、大阪とベトナムが直結すると、再び盛り返しを見せ、翌年には冨田と元専任の桃木(阪大)が大阪府文化振興財団と協力し、世界的シンガーソングライターのTrịnh Công Sơn氏の大阪への招致を実現し、その日本初の公演は在学生・留学生・卒業生に大いなる勇気と自信を与えた。

翌1997年は新学期早々、冨田がパリ第七大学へ1年間の文部省長期在外研修に出発し、その留守番を買って出たのが現専任の清水である。外国人講師は1995年9月に女性のHàから男性のNguyễn Thanh Tùngに代わっており、女性教員は外国人教師のLoan一人になっていた。

翌1998年4月に冨田は復帰するが、1984年4月から14年も学生指導に奮闘してくれていた、もう一人の外国人教師のLợiが体調を崩して出講不能となり、急遽、折しも博士後期課程入学準備のため来日していたベトナム人日本語教師Lê Hoàng夫人Trần Thị Thu Thuỷに代講をお願いした。その後このポストは現非常勤講師のLê Ngọc Thuỵ Uyênが担当することとなる。Lợiはその年の5月、残念ながら不帰の人となってしまった。享年46歳という若さだった。

前世紀の終わりを飾る1999年の4月には、Tùngに代わり、8代目のĐỗ Xuân Thảoをハノイ師範大から招聘し、Lợiの遺志を継いで正式に着任したUyênと共にベトナム語専攻は一気に若返った。

21世紀を迎えた2001年4月、その若手の代表として語科を牽引して来た歴史学者の八尾が、広島大学に転出した後、代わって文化人類学専門の住村欣範を阪大から招いた。その年は、SARSや鳥インフルエンザなどの奇病が特に東南アジアを中心に蔓延し、ベトナム留学を目指す学生達にも一定の影響が及んだ年であった。

その前年の2000年から冨田が既に指導を開始していたHoàngが、3年間の博士後期課程を終え、2003年3月言語文化学博士号を取得し、日本人学生も含めて専攻語初の博士となった。夫人のTrần Thị Thu Thuỷと共に専攻語の運営にも尽力を惜しまなかった。

その年の夏には、1979年以来、実に24年振りとなる、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の夏期言語研修の担当が当たり、冨田とThảoを中心に専攻語スタッフ全員が4冊に上る教科書・語彙集作りからほぼ1年をかけて精力的に取り組んだ。

翌2004年にはそのThảoも5年の任期を終えて去り、再び女性のNguyễn Thị Hoàng Chiと交替する。それ以来このポストは女性教員で占められることになる。2006年4月からはNguyễn Thị Thanh Xuân、2008年4月からはNguyễn Mỹ Châuと続く。

その前年の2007年3月、1982年以来実に25年間にわたって専攻語の強力な柱として学生の指導に当たった五島文雄が静岡県立大へと転出し、後任に首都大学東京・中国大連理工大学などで言語学、日本語学の専門家として教鞭をとっていた清水政明が、漸く母校の教員となって着任する。しかし、その母校の大阪外国語大学は大阪大学に統合されることが既に決まっており、その年の10月からは早速、大阪大学世界言語研究センターのスタッフとしての再スタートとなった。

それまで頑なに守って来た三本柱は、言語学を専門とする清水の着任で崩れ、以降はそのセンター名に忠実に、ひたすら「言語」を中心とした研究・教育に専念する方向に舵を切る。文化については、古巣へ戻った感のある現スタッフの住村や既に阪大に転出して久しい桃木等の専門家に委ねることにした。

こうして新体制の下、2008年4月、初めて「阪大生」として専攻語の学生を迎えることになる。教養教育は豊中キャンパスで行うという阪大の方針で、入学直後から既に専門教育に入っている外国語学部も1年間、豊中に足止めされ、教員全員がはるばる箕面から通うことになり、教員にも学生にも大きな負担となっている。教員は意識としてはまるで非常勤講師の如くであり、これを迎える学生も親しく質問すらできず、営々と築かれて来た専攻語の伝統である「智恵の伝承」も危うくなってしまっている。阪大・外大統合の負の遺産とも言える。

(以上文責、冨田健次)


 

2007年10月よりいよいよ大阪大学としてスタートを切ることとなった。個々の教員の思いは様々であったが、冨田の素早い判断により、ベトナム語専攻は世界言語研究センターの名に忠実に、言語を中心に据えたスタッフ陣により再スタートを切った。2007年4月より既に着任していた清水に加えて、同センタースタッフとして半年間、通算2年勤めたNguyễn Thị Thanh Xuânに代わって、2008年4月より自然言語処理を専門とする南部出身のNguyễn Mỹ Châuが就いた。センターの人事システムに従って特任准教授としての着任となった。

新たなスタートと共に我々を迎えたのは、「第二次ベトナム・ブーム」の到来を象徴する(前)ベトナム国家主席Nguyễn Minh Triết氏の来阪であった。2007年11月末ホテルニューオータニで開催された歓迎会では専攻の教員、学生を問わず通訳として参加し、確実に注目を浴びるベトナムを共に実感することとなった。

世界言語研究センター設立当初から、IT技術を利用した語学教育の必要性が叫ばれた。センター企画推進本部委員として同会議に参加していた清水が偶々CALL(コンピュータ支援型外国語学習)に携わった経験を有したことから、2008年4月から2012年3月にかけて実施された「社会人を対象とした学士レベルの外国語教育プログラムの提供」事業(http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flit/)の一環としてベトナム語が対象に選ばれ、その特任助教としてかつて本専攻博士後期課程に在籍した山本(桜井)理恵が着任することとなり、以後の専攻運営にも大いに尽力した。もちろん、その背景には上記ベトナム・ブームの存在があったことは言うまでもない。

2009年3月センターの紀要論集が発刊される運びとなり、その際ポルトガル語とベトナム語専攻が実質的に中心となり「世界言語研究センター論集創刊記念講演会」「世界言語研究センター論集創刊記念シンポジウム」を企画することとなった。ベトナムからはハノイ国家大学人文社会科学校で言語学を教えるNguyễn Văn Hiệp氏を招聘し、ベトナム語の文法研究史に関する講演をしてもらった。以後、専攻の枠を超えて、英語と専攻語で自由に議論しあうポルトガル語とベトナム語の共同企画「RIWLセミナー」がセンターのイベントとして恒例化することとなる。

同年10月17日、神田外語大学にて開催された第3回ベトナム語スピーチコンテストに初めて参加し、本学から参加した学生が見事最優秀賞を受賞した。

次ぐ2010年度はベトナム語専攻にとって実に忙しい年度となった。まずそれに先立ち10月、一身上の都合により急遽18年に亘る非常勤講師の職を辞したBùi Thị Loanに代わり、かつて大阪外大で修士号(英語学)を修めた言語を専門とするフエ出身のTrương Thị Kim Hoaが着任した。

ハノイに都が置かれ昇龍城が建てられてから丁度千年目となるこの年の10月、首都で盛大に記念イベントが行われた。それに乗じ我々も専攻を挙げて記念すべき瞬間を現地で祝うべく、ベトナミスト・クラブ会員の面々と共にハノイへ渡った。そこではかつて大阪外大時代に教鞭を取った外国人教師の面々が集い、実質上盛大な同窓会となった。

2010年11月、第3回目となるRIWLセミナーが開催され、「The Universe of World Languages and Literatures」の共通テーマの下、ベトナムからハノイ国家大学人文社会科学校で少数民族言語を記述研究するTrần Trí Dõi氏を招聘し講演をお願いした。

上記「社会人プログラム」を続行する傍ら、センター主要事業の一つである「高度外国語教育全国配信システムの構築」プロジェクト言語コンテンツ作成の一環としてベトナム語コンテンツの開発が同年度に行われ、ユニークな発想に基づく初級自習用コンテンツが開発された(http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flc/vie/index.html)。また、今ひとつの柱となる事業、初級教科書「大阪大学世界言語研究センター世界の言語シリーズ」第4として「ベトナム語」が執筆され、3月に大阪大学出版会より発行された。

清水がその教科書の原稿を3月10日夜を徹して書き上げ、11日早朝吹田キャンパスにある出版会へ届けた後、京都の自宅へ帰った矢先、数分に亘る強い揺れを感じ、その直後悪夢のような光景がテレビから飛び込んできた。忘れもしない東日本大震災の発生である。事実を確認した後、冨田は我が専攻の卒業生と連絡を取ろうとし、清水は福島で学ぶベトナム人留学生とのコンタクトを試みた。その後、被災する留学生の意向を在東京ベトナム大使館に伝えると共に、在日本ベトナム人留学生の安否確認に徹した。そんな時大いに役立ったのがfacebookである。やがて、大使館側から清水に特定人物の安否確認の依頼が来るようになり、ベトナムのマスコミへの情報提供にも努めた。各専攻の同様の作業が、大阪大学世界言語研究センター多言語震災情報サイトの開設へと繋がっていった(http://riwl-disaster.info/)。

2010年度について特筆すべき事として、卒業論文をベトナム語で書き始めたことが挙げられる。この頃までには、外国語学部本専攻学生の質的変化を誰もが感じていた。プラス面は専攻語を選ぶ理由の積極性にあり、マイナス面はズバリ「語学の軽視」である。言語を基礎に据えたベトナム文化の理解が引いては真の意味での国際人の育成に繋がると信じて疑わない我々は、それを貫徹すべくこの手段を採った。一方、大阪府八尾市在住ベトナム人コミュニティーへ出向いての母語としてのベトナム語教育支援事業が軌道に乗り始めたのもこの頃からであった。

2012年8月から9月にかけて、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所主催言語研修「ベトナム語中級」を大阪大学中之島センターにて開催した(http://www.aa.tufs.ac.jp/ja/training/ilc/ilc2012)。映画の内容に基づいたリスニング教材作製に際しては、ベトナムを代表する映画監督Đặng Nhật Minh氏の絶大なる協力を得た。

2012年10月21日ベトナム・枯葉剤爆弾被害者支援/自立支援プログラム「ベトナムの魂“チンコンソン”の世界~ベトナム民族アンサンブルコンサート2012 ~」がIFCC国際友好文化センター主催、本専攻協力の形で開催され、冨田が挨拶、清水が司会兼通訳を務めた。この時より、隻腕のギタリストNguyễn Thế Vinh氏と彼の運営する「ひまわり孤児・障害児育成社会支援センター」との交流が始まった。

2013年3月、35年半に亘ってベトナム語専攻の設立、運営に文字通り全てを捧げた冨田が退職、それに伴い南部出身のPhan Thị Mỹ Loanが助教として着任した。同時にChâuに代わって北部出身のNguyễn Thị Ngọc Thơが特任講師として着任した。冨田の最終講義はベトナム語彙における「音」と「意味」の関係性を説く、ベトナム語の研究、教育全般に関わる極めて示唆に富む内容であった。

日越国交樹立40周年に当たる2013年、記念事業の一環として7月にアンソロジー『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集175篇』(日本語・英語・ベトナム語合体版)、並びにベトナム社会主義共和国・元国家副主席グエン・ティ・ビン女史回顧録『家族、仲間、そして祖国』の翻訳をコールサック社より出版した。

新生ベトナム語専攻が発足して7年、日々の雑務に忙殺される中、客観的に見て未だ本来の色が示せているとは到底思えない。ベトナム語専攻、引いては外国語学部の底深く流れる熱い血流を「知の遺産」として具現化し継承してゆくには、外大時代を生き抜いた先達の知恵を拝借すべき時期がまだまだ続くと痛感する。

(以上文責、清水政明)

 

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ベトナム語専攻の父、冨田健次氏

 

大阪大学外国語学部の歴史編纂委員会(2014)『大阪大学外国語学部の歴史』より引用